鹿島と平津を結ぶ古代道路の新発見

8~9世紀の奈良・平安時代になると、都と地方とが道路網で結ばれた、古代律令国家が成立します。茨城県は常陸国(ひたちのくに)に属し、常陸国府(ひたちこくふ)(石岡市)を中心に、複数の郡に分かれ、中心となる役所の郡衙(ぐんが)間には、道路網が整備されます。
大洗町は、水戸市渡里町を中心とした那賀(なか)郡と、鹿嶋市神野向(かのむかい)遺跡を中心とした鹿島郡の境界付近に位置し、『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』に登場する平津駅家(ひらつのうまや)が存在しました。平津は地名で、駅家とは、幹線道路上で30里(約16km)ごとに馬を繋(つな)ぎとめた陸路の駅です。平津の場合は、水運の拠点としての水駅の機能が考えられており、常陸国府と繋がりながら陸奥国(むつのくに)にも開けた河川港として重要な位置を占めていたと考えることができます。

↑平津の位置と古代道路想定路線

平津駅家は、これまで明確な遺構は発見されていませんが、水戸市平戸から桜道(さくらみち)の北部、その間の掘割(ほりわり)付近と考えられます。特に桜道からは平津と同じ7~9世紀代の古代の竪穴建物が数十棟発見されており、駅家周辺の集落として機能していたようです。
平津駅家から北の那賀郡衙へ向かう道路は、遺構も見つかり経路が想定されてきましたが、鹿島台地を縦断し鹿島郡衙に至る南へ向かう道路は、どこを通るのかはっきりしませんでした。
そのような中、令和6年4月に実施した、大貫町の寺ノ上遺跡第8次発掘調査現場から、古代に遡る道路の跡が発見されました。

↑3Dモデルを通して、古代の道路を観察しよう!(画像をクリックするとMatterport(マターポート)社の専用ページに移動します)

国立研究開発法人 産業技術総合研究所 による

(令和6年度『デジタルツインを用いた埋蔵文化財三次元データ公開活用に関する研究』に基づく)

↑道路跡の検出状態(東から撮影)

↑道路跡の全景(南から撮影)

↑道路跡の全景(南東から撮影)

↑道路跡の全景(北東から撮影)

↑道路跡の全景(北西から撮影)

↑道路跡の堆積状態(南西から撮影)

↑東側溝の完掘状態(南から撮影)

↑東側溝の完掘状態(北から撮影)

↑東側溝の遺物(土師器坏)の出土状態

↑東側溝の遺物(勾玉)の出土状態

↑西側溝の全景(北から撮影)

↑西側溝の堆積状態(南東から撮影)

↑西側溝の貝類遺体の検出状態(西から撮影)

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大洗町教育委員会生涯学習課文化財係
電話:029-212-5211

令和6年6月  4日掲載
令和6年6月20日更新

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